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方子妃が作った学校
方子妃は学校を育てることに全精力を傾けていきます。


方子がつくった障害児のための学校の一つ、ミョンフィウォン(明暉園)はいまは韓国でも屈指の障害児施設になっています。


| http://lastqueen.net/cp-bin/blogn/index.php?e=36 |
| | 08:40 PM | comments (0) | trackback (0) |
殿下との永遠の別れ 「私は生きて行く」
方子妃が学校経営に奮闘していたさなか、李垠殿下は、意識を回復しないまま、亡くなります。72年の生涯でした。朝鮮王朝最後の皇太子を、韓国は国葬で見送りました。


一人、韓国に残った方子妃。李垠殿下との約束を守ることを決心します。


亡くなった殿下への思いを歌う「私は生きて行く」。オペラを見る人たちが涙する場面です。


| http://lastqueen.net/cp-bin/blogn/index.php?e=35 |
| | 08:38 PM | comments (0) | trackback (0) |
李垠殿下との約束
しかし、方子妃には、李垠殿下と交わした約束がありました。「李垠殿下が日本におられたとき「私は韓国に帰ったら 貧しい不幸な子どもたちのために生涯を捧げる もし私ができなかったら あなたがしてくれ」と言って方子妃と約束したのです



1968年 方子妃は、障害児のための学校ミョンフィウォン(明暉園)を作ります。学校の名は李垠殿下の雅号からとられています。社会のなかで孤立しがちな障害児に、集団生活を体験させ、自立して生きられるよう、専門技術を教えています。家庭に障害児がいると 家族が恥ずかしがって隠していた そんな時代でした。


| http://lastqueen.net/cp-bin/blogn/index.php?e=34 |
| | 08:37 PM | comments (0) | trackback (0) |
反日の嵐を乗り越えて
二人が帰国した直後、日本と韓国は国交回復します。しかし当時、韓国では反日の嵐が吹き荒れていました。日韓国交正常化の交渉が、戦後補償などをめぐって紛糾。「たった5億ドルで国を売るのか」など、交渉に反対するデモが激化したのです。
方子妃も、韓国に移って早々、試練が訪れます。学園紛争に巻き込まれたのです。「チョッパリ(日本人の蔑称)出て行け!」と学生たちがデモをして理事の座を追放されます。



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| | 08:36 PM | comments (0) | trackback (0) |
日本よ さようなら
方子妃に、生まれ育った日本に別れを告げる日がきました。このとき方子62歳。韓国の一市民として生きる決意を胸に旅立ちました。


朝鮮王朝の皇太子・李垠殿下を、ソウル市民は温かく迎えます。しかし李垠殿下はそれを知ることなく、病院に運ばれました。


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| | 08:35 PM | comments (0) | trackback (0) |
韓国へ渡りたい しかし…
日本と韓国に国交がない中で、どうすれば夫の帰国を叶えられるのか。方子は李垠殿下と外務省を訪れます。応対した町田貢さんによると李垠殿下も病気で倒れ、方子妃はとても苦労されていたということです。田月仙(チョン・ウォルソン)さんは町田さんから当時のことをききました。


| http://lastqueen.net/cp-bin/blogn/index.php?e=31 |
| | 08:34 PM | comments (0) | trackback (0) |
苦しみの中で立ち上がる方子妃
皇族から平民となった苦難の時期。この時期の方子妃の資料はいままであまり確認されていませんでした。しかしオペラ制作のために、当時の関係者を訪ね歩き、当時書かれた方子妃の手紙や写真などを発見しました。これはあまりにもプライベートなため発表はできませんが、そこには方子妃の新たな真実が見えました。



オペラでは新しい李方子像をつくりました。李方子妃は皇族出身なので、自らの感情を出すことはあまりないのですが、創作物であるオペラでは、表面は物静かに見える王妃の、熱い魂の叫びを、感情の表現として伝えることができます。これまでは李方子妃は「悲劇の女王」としての人生がクローズアップされてきましたが、この作品は「運命に向き合う強い女性」としての新しい李方子像を描きました。



| http://lastqueen.net/cp-bin/blogn/index.php?e=30 |
| | 08:33 PM | comments (0) | trackback (0) |
日本と韓国の狭間で
さらに、日本による朝鮮半島の統治が終わったことで外国人と見なされることになった方子妃はこういいます。「これではっきり日本からほうり出された……」。
夫の李垠殿下もまた、深い戸惑いの中にありました。「私はもう純粋な朝鮮人とはいえなくなっている。それかといって、日本人にもなりきれない」と。


一方、朝鮮半島では大韓民国が建国されます。李垠殿下は帰国を望みましたが、初代大統領イ・スンマンは、王政の復活を恐れて、難色を示します。


| http://lastqueen.net/cp-bin/blogn/index.php?e=29 |
| | 08:32 PM | comments (0) | trackback (0) |
終戦ですべてが一転する
そんな方子妃と李垠殿下の人生を大きく変えたのが、1945年、日本の敗戦でした。



二人は、皇族がその身分を離れる皇籍離脱にともない、平民となります。さらに、8割近い財産税が追い打ちをかけました。



| http://lastqueen.net/cp-bin/blogn/index.php?e=28 |
| | 08:31 PM | comments (0) | trackback (0) |
日本陸軍軍人として
太平洋戦争が勃発。李垠殿下は模範的な大日本帝国の軍人そのものでした。


当時、陸軍の技術将校だった今村和男さん(今村均・陸軍大将の長男)は「李王殿下は軍人としてもすばらしいお方でいらっしゃいました。朝鮮の王様というより日本皇族の中の一員でいらっしゃって、しかも非常に部下思いで、日本人以上の日本人だと、私どもは考えておりました」といいます。


方子妃は、「朝鮮王朝の皇太子」であり、「日本の皇族(王公族)」であり、「日本の陸軍軍人」という、李垠殿下の複雑な立場を理解し、殿下を理解し支えます。


| http://lastqueen.net/cp-bin/blogn/index.php?e=27 |
| | 08:29 PM | comments (0) | trackback (0) |
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