オペラ「ザ・ラストクイーン」と李方子 妃

オペラ「ザ・ラストクイーン 朝鮮王朝最後の皇太子妃」制作の過程でわかった李方子妃の新情報を随時掲載していきます。 


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今から102年前の8月、その日、運命の扉は開いた。

「李王世子の御慶事-梨本宮方子女王とご婚約」 1916年8月3日の東京朝日新聞です。 
朝鮮王朝の皇太子と皇族の方子が婚約。新聞各紙は、写真入りで大きく伝えました。 一方、方子妃は、自分の婚約をこの記事を見て知ったと自伝に書いてあります。「知らぬ間に、婚約だなんて…」。運命の瞬間。これをきっかけに方子妃の激動の人生が始まります。 オペラ「ザ・ラストクィーン」のオープニングです。 
 

李方子が自身の婚約を知ったのは大磯の別荘

李方子妃(梨本宮方子女王)が、自分の婚約の記事を見たのは、大磯にあった梨本宮家の別荘でした。大磯は富士山がみえる美しい海岸です。 
 


オペラを企画した田月仙(チョン・ウォルソン)は、オペラ制作の始動とともにこの大磯の海岸を訪ねました。大磯の別荘は今はありませんが、異国で生まれた李垠殿下との結婚を知った方子の心を、100年の時を越えて感じるのでした。 
 

 


学習院女子時代の李方子妃

李方子妃(梨本宮方子女王)はその頃、学習院女子中等科在学中。 
 

方子妃の生い立ち

方子女王は1901年、皇族・梨本宮家(なしもとのみやけ)の長女に生まれました。写真は生後1年ほどの方子妃と母・梨本伊都子(なしもと いつこ)です。 
 

方子妃の両親

方子妃の両親 

方子女王の母・梨本伊都子(なしもと いつこ)は肥前国佐賀藩第11代藩主・鍋島直大(なべしま なおひろ)の娘でした。父・梨本宮守正王(なしもとのみや もりまさおう)は皇族・久邇宮朝彦親王(くにのみや あさひこしんのう)の第4王子でした。 

 

方子妃の妹 規子

方子女王には妹・規子(のりこ)女王がいました。二人はとても仲良く、ここではお見せできませんが、たくさんの手紙のやり取りからその様子がみてとれます。 

 

方子妃の食事

当時の皇族・華族の世界はどんなものだったのでしょう? これは方子妃が持っていた大正2年(1913年)の食事のメニューです。午餐とあるから昼食ですね。メニューからみて洋食(フレンチ)のようです。松露とはトリュフのことでしょうか。メインは七面鳥(ターキー)。乾酪とはチーズのことですね。 

 

大正時代の音楽会

こちらも方子妃が持っていた大正3年(1914年)の音楽会のプログラムらしきものです。曲目がまったくわからないので田月仙(チョンウォルソン)さんに伺いました。1曲目の「行進曲 華盛頓通信 ソウサ」とはジョン・フィリップ・スーザのJohn Philip Sousaの「ワシントン・ポスト(The Washington Post)」ではないかということです。スーザは「星条旗よ永遠なれ」を作った作曲家で、当然ながらアメリカの愛国的な曲だと言えます。この時代はまだアメリカは敵性国ではないようす。「音楽に国境はない」というか、良き時代だったのでしょうか。 

 

学習院女子時代の李方子妃

15歳になった方子女王は、、学習院の女子部に通い、後の昭和天皇の妃候補とも噂されていました。 
 

しかし、1916年(大正5年)8月3日、方子女王が見た新聞で報じられた婚約相手は、旧朝鮮王朝、大韓帝国最後の皇太子である

英親王・李垠(りぎん・イウン・이은)殿下だったのです。 

 


この新聞で婚約を知ったということは方子妃の自伝にも書いてありますが宮内庁の資料や母・梨本宮伊都子妃の日記などを見ると、そのいきさつについてはいろいろあるようです。日本と朝鮮の融和のための政略結婚という側面だけではないようです。しかし方子女王自身にとってはまさに青天の霹靂だったのは事実でしょう。 

 

1916年8月4日の朝鮮半島での報道

朝鮮王朝 の最後の皇太子・李垠殿下と梨本宮方子女王との婚約は、朝鮮半島の新聞でも報道されました。 それによると「日鮮永久の親誼」「内鮮人結婚の範」などと結婚を称賛していました。当時朝鮮半島でもこの結婚を喜んでいたのでしょうか?  それとも総督府の指示ででこう書かざるを得なかったのでしょうか? 日本の統治により滅んだとも言える朝鮮王朝に思いをはせます。
 

 

相手の李垠殿下とは…

相手の李垠殿下とはどんな人だったのでしょうか? ここからは田月仙(チョン・ウォルソン)さんの取材の旅に同行します。ここはソウルにある昌徳宮(チャンドックン)です。14世紀から500年以上に渡って朝鮮半島を支配してきた朝鮮王朝の王宮です。 

 

李垠は、1897年、第26代の王・高宗(コジョン고종)を父に1897年に李氏朝鮮(朝鮮国)が大韓帝国と改称した年に生まれ、純宗の即位のときに大韓帝国皇太子(懿愍皇太子)となります。10歳までソウルの王宮で過ごします。 

 

しかし日露戦争に勝利した日本は、1905年、韓国の外交権を握り、保護国としました。まもなく李垠は初代韓国統監となった伊藤博文に連れられ、日本に留学します。 
 

その3年後、1910年、日本は韓国併合に踏み切ります。朝鮮半島は日本の一部となり、500年の歴史をもつ朝鮮王朝は幕を閉じました。その一方で、日本は、民族感情を考慮して、朝鮮王朝の李王家の一族に、日本の皇族に準ずる「王公族」の地位を与えました。李垠は日本の皇族男子の義務に従い、大日本帝国の軍人になりました。 

 

納采の儀

婚約が決まった方子妃は1918年12月、納采の儀(結納)を行います。 
 

1919年1月10日「女王として最後」として十二単をまとって天皇陛下・皇后陛下を訪問しています。 
 


結婚を目前にした心境

方子女王と李垠殿下の結婚は1919年(大正八年)に予定されていました。当時の方子妃の心境、揺れ動く心がうかがえる大正8年の直筆日記があります。 
 

田月仙(チョン・ウォルソン)さんはその日記を読みました。そしてオペラ「ザ・ラストクイーン 朝鮮王朝最後の皇太子妃」の台本に生かしました。 
 

日記はこう始まります。「1月2日:希望多く任務重き大正8年は終いに来りぬ。処女としての最後の新年なり」。 
 

結婚直前の高宗が急死

ところが、結婚式を4日後に控えたときのことでした。李垠殿下の父・高宗が急死。李垠殿下は急遽、朝鮮に帰ります。高宗の死をめぐっては日本による暗殺説も流れました。それが引き金となって、日本の朝鮮統治に対する不満が爆発。激しいデモが、朝鮮半島各地に拡大していきました。これが「三一独立運動」です。そう、オペラ「ザ・ラストクイーン」の大阪公演日(3月10日)の100年前です。方子妃と李垠殿下の結婚は1年間延期になります。 

 

日本にいる方子は殿下を案ずる気持ちを日記に残しています。 

「3月7日 殿下は、どんなにしていらっしゃるかしら。 
朝民の暴動はどんな風なのかしら。何だか心配である・・・」 
 

李方子妃と李垠殿下のデート

その後、日本へ戻った李垠殿下と方子妃は、次第に心通わせ真実の愛を育んでいきます。結婚の延期は、二人に、互いを理解する時間を与えました。 
「3月10日 今日は待ちに待った嬉しい日。殿下ならせられる。久しぶりにお姿懐かしく、今日はお話しすることができてうれしかった」 。殿下との初めてのデートの日です。奇しくもオペラ「ザ・ラストクイーン」大阪公演から100年前の日です。
 

二人の距離は、次第に近づきます。 
「本当に私は幸福なりき。隣国とは申せ、私には毛頭へだての心は起しがたく、ひとたびお会いしてからは、御なつかしさの心のみ出て、時の過ぎるのも忘れる身となった」 
 
実際の李方子妃もインタビューで「今、現代で言うとデートじゃございませんけど……」と回想しています。 

オペラではこの日記を読みながらの田月仙(チョン・ウォルソン)さんのレシタティーボの場面があります。いままで明らかになっていなかった方子妃の心情が歌と語りで綴られていきます。 
 


世紀の政略結婚

二人の結婚式は、1920年4月、東京の李垠殿下の屋敷で行われました。方子は後にこう述べています。「日鮮両国が固く結ばれあうためのくさびになる重いお役目」を感じたと。 
 


朝鮮王朝の跡継ぎ・晋の誕生

一年後、二人に愛の結晶が生まれます。長男の晋(しん)です。 

 

初めて訪れる朝鮮半島

翌年、方子は初めて朝鮮半島を訪れます。生後8か月の晋を、李王家の一族にお披露目し、朝鮮式の結婚式を挙げるためでした。海峡を越えて渡る生まれて初めての朝鮮半島、方子妃はどんな気持ちだったのでしょう。釜山から下関へ。田月仙(チョン・ウォルソン)さんも船でたどりました。 
 

そして船は釜山に到着します。李垠殿下の後ろの方子妃、そして長男・晋王子を抱いたおつきの人がいます。 
 

宮中大礼服 翟衣・チョグィ・적의

結婚式に臨む方子。朝鮮王朝の宮中大礼服である「翟衣・チョグィ・적의」に身を包み、大髪を結いました。 
王妃だけが身に着けることのできる紫の翟衣(チョグィ)と王冠。方子に朝鮮王朝五百年の歴史の重みを伝えることになりました。 
 

オペラではこの翟衣(チョグィ)を方子役の田月仙(チョン・ウォルソン)さんが纏った場面が見られます。 

翟衣(チョグィ)は1990年に日本政府が韓国に返還した幻の衣装です。実物は韓国国立古宮博物館に所蔵されており非公開です。オペラではこの翟衣(チョグィ)を学校法人文化学園の協力のもと再現しました。写真は大沼淳理事長、小杉早苗学園長、辛島敦子教授、太田繁先生、服飾博物館の吉村紅花さんたちです。 
 

晋の突然の死

しかし、帰国の直前、悲劇が起こります。晋が食中毒にかかり、3日後に亡くなったのです。 
毒殺説も残っています。 
 

方子妃の悲しみを想像すると……。 
晋よ 私をゆるして あなたを守れなかった母を 
 

大正〜昭和 激動の時代

その後の方子妃の人生にも激動の時代が訪れます。 
 

李垠殿下は関東大震災で朝鮮人がデマで殺されたことを聞き「ご憂悶」されたといいます 
 

一方で、皇族の義務にしたがって軍人の道を歩みます。 
 

日本陸軍軍人として

太平洋戦争が勃発。李垠殿下は模範的な大日本帝国の軍人そのものでした。 
 

当時、陸軍の技術将校だった今村和男さん(今村均・陸軍大将の長男)は「李王殿下は軍人としてもすばらしいお方でいらっしゃいました。朝鮮の王様というより日本皇族の中の一員でいらっしゃって、しかも非常に部下思いで、日本人以上の日本人だと、私どもは考えておりました」といいます。 
 

方子妃は、「朝鮮王朝の皇太子」であり、「日本の皇族(王公族)」であり、「日本の陸軍軍人」という、李垠殿下の複雑な立場を理解し、殿下を理解し支えます。 

 

この時代の李垠殿下と方子妃の貴重な写真が発見されました。ここには大阪・偕行社時代の写真などが含まれています。夫妻は大阪偕行社の時代、子息は偕行社付属小学校(いまの追手門小学校の前身)に通っていました。偕行社が会った場所は、なんとオペラ「ザ・ラストクイーン」の大阪公演が行われるドーンセンターホールと同じ場所です。因縁を感じます。

終戦ですべてが一転する

そんな方子妃と李垠殿下の人生を大きく変えたのが、1945年、日本の敗戦でした。 

 

二人は、皇族がその身分を離れる皇籍離脱にともない、平民となります。さらに、8割近い財産税が追い打ちをかけました。 
 


一方、朝鮮半島では大韓民国が建国されます。李垠殿下は帰国を望みましたが、初代大統領イ・スンマンは、王政の復活を恐れて、難色を示します。 

 

日本と韓国の狭間で

さらに、日本による朝鮮半島の統治が終わったことで外国人と見なされることになった方子妃はこういいます。「これではっきり日本からほうり出された……」。 夫の李垠殿下もまた、深い戸惑いの中にありました。「私はもう純粋な朝鮮人とはいえなくなっている。それかといって、日本人にもなりきれない」と。 

皇族から平民となった苦難の時期。この時期の方子妃の実像はあまり確認されていませんでした。オペラ制作のために、当時の関係者を訪ね歩き、方子妃の思いが見えてきました。 
 

苦しみの中で立ち上がる方子妃

 

オペラでは新しい李方子像を作りました。方子妃は皇族出身なので、自らの感情を出すことはあまりないのですが、創作物であるオペラでは、表面は物静かに見える王妃の、熱い魂の叫びを、感情の表現として伝えることができます。これまで李方子妃は「悲劇の女王」としての人生がクローズアップされてきましたが、この作品は「運命に向き合う強い女性」としての新しい李方子像を描きました。 

韓国へ渡りたい しかし…

日本と韓国に国交がない中で、どうすれば夫の帰国を叶えられるのか。方子は交渉のため単身韓国へ渡ります。おりしも朴正煕(パクチョンヒ)が政権を握り、日韓関係の改善と、二人の帰国を望むと表明したのです。

方子妃は朴正煕との会談後、およそ40年ぶりに長男・晋の墓を訪れます。田月仙さんはその墓を訪れた時、胸が詰まったといいます。

日本よ さようなら

方子妃が、生まれ育った日本に別れを告げる日がきました。このとき方子62歳。韓国の一市民として生きる決意を胸に旅立ちました。 
 

朝鮮王朝の皇太子・李垠殿下を、ソウル市民は温かく迎えます。しかし李垠殿下はそれを知ることなく、病院に運ばれました。 

 

反日の嵐を乗り越えて

二人が帰国した後に、日本と韓国は国交回復します。しかし当時、韓国では反日の嵐が吹き荒れていました。日韓国交正常化の交渉が、戦後補償などをめぐって紛糾。「たった5億ドルで国を売るのか」など、交渉に反対するデモが激化したのです。 
方子妃も、韓国に移って早々、試練が訪れます。学園紛争に巻き込まれたのです。「チョッパリ(日本人の蔑称)出て行け!」と学生たちがデモをして理事の座を追放されます。 

 

 

当時、韓国の日本大使館で勤務していた町田貢さんによると李垠殿下も病気で倒れ、さらに食堂でも日本人だとわかれば皿が飛んでくるような反日感情が強い時代。方子妃はとても苦労されていたということです。

李垠殿下との約束

教育の道が閉ざされた方子妃は、障害児のための学校ミョンフィウォン(明暉園)を開きます。学校の名は李垠殿下の雅号からとられています。社会の中で孤立しがちな障害児に、集団生活を体験させ、自立して生きられるよう専門技術を教えています。家庭に障害児がいると 家族が恥ずかしがって隠していた そんな時代でした。 

 

1970年、夫・李垠殿下が亡くなります。方子は韓国でたった一人ぼっちになりました。

 

 

亡き夫、李垠殿下との約束を思い出し、韓国に残る決心をする方子妃。その思いを歌った珠玉のアリア「あなたと一緒に」。オペラの聞かせどころです。

方子妃は李垠殿下の死後も日本に戻らず、障害児教育と福祉活動をさらに広げます。

 

韓国語もあまり上手ではない方子妃。当初は、反日感情が残る韓国で、冷ややかな視線で見ていた韓国人たちですが、徐々に受け入れられ、「韓国の母(オモニ)」とまで呼ばれるようになっていきました。当初から李方子妃の活動を手伝っていたキルト博物館の金順姫(キムスンヒ)さんは当時のことを証言します。

 

方子妃が作った明暉園と慈恵学校はいまも続いています。田月仙さんは両方の学校を訪ねました。当時と違って、いまでは生徒も数多く韓国無二の障害児施設と言っても過言ではないでしょう。設備も最先端のコンピュータなどが導入されていますが、方子妃が始めた時代のミシンなども、まだ大切に使われています。方子妃の意志は確実に、現代にも残されています。

なぜ、方子妃は、たった一人韓国に残り障害児のための活動を続けたのでしょうか? 方子妃の複雑な思いは、当時書かれた手紙などから読み取ることができます。それは、李垠殿下との約束があったのです。李垠殿下が日本におられたとき「私は韓国に帰ったら 貧しい不幸な子どもたちのために生涯を捧げる もし私ができなかったら あなたがしてくれ」と方子妃と約束したのです 。

皇室女性として生まれ、朝鮮王朝最後の皇太子妃となり日本と韓国の両国の狭間で生きた方子妃は、その思いを、一枚の書にたくしました。それは「和」という文字です。方子妃は、いたるところで、この「和」の文字を書き残しました。オペラではこの「和」の書がとても大切な意味を持っています。それはぜひ公演をごらんください。

 

1989年・平成元年4月、李方子は87歳で亡くなりました。準国葬として執り行われ、葬列は1キロにも及びました。日本の皇族から、韓国の母となった李方子。結婚をする予定だったのは100年前の1919年3月。亡くなったのは平成になった直後、彼女の人生は「裏昭和史」とも言えます。

 

オペラ「ザ・ラストクイーン」は2015年10月に「新国立劇場」で初演されました。公演は、NHKテレビ・新聞全国各紙などで取り上げられ、高円宮妃殿下様や皇室御関係者、駐日韓国大使はじめ各界のご来賓の皆様や数多くの観客が訪れました。平和への祈りが込められたこの作品は社会的現象を起こしました。

この年、主演の田月仙(チョン・ウォルソン)は外務大臣表彰を受賞。園遊会にも招待されました。そしてかつて李方子妃とも親交があった天皇・皇后両陛下にオペラ「ザ・ラストクイーン」のことをご報告しました。両陛下は「李王様の!…」と感慨されました。

2016年11月にオペラ「ザ・ラストクイーン」は文化庁「芸術祭参加作品」として再演されました。初演同様、劇場は、感動と称賛の声に包まれました…。

2019年の大阪公演は300人あまりのキャンセル待ちとなりま,、2021年の東京公演も満員御礼でした。

すべての公演には、歴代の韓国大使からの祝辞が寄せられ、李方子ゆかりの方も多数ご来場されました。

そして2022年3月、オペラ「ザ・ラストクイーン」が再演されます。

日本と朝鮮半島との関係が激変を続けている時代、朝鮮王朝と日本の関わりをみつめてみませんか?

 

 


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